ニューヨーク・タイムズが、「成果志向の利他主義:チャリティと合理主義が出会う場所」というおもしろい論考を掲載しました。
「利他主義」というのは、「利己主義」の反対概念で、他人のために何かをしてあげようという志向性を指します。フィランソロピーの基本は、(若干、議論があるとは言え)この利他主義にあります。寄附やボランティアなどの形を取って行われるこの利他主義は、通常、「助けてあげたい」とか「何とかしなきゃ」という感情や情熱に基づいています。その意味では、「非合理的」なものです。
これに対し、「成果志向の利他主義」は、そこに合理性を求めます。この運動を主導している米国GiveWellは、よきチャリティの基準として、(1)グローバルな貧困問題に資すること、(2)物的証拠に基づいた介入に重点を置くこと、(3)徹底した調査に基づき、高度の透明性を確保していること、の3つを設定します。「成果志向の利他主義」は、どうせ寄附やボランティアをするのだったら、この基準のように、成果が期待できるチャリティにあげようよ、と呼びかける運動です。
この考え方、皆さんはどう思われますか。私は、たとえば、GuideStarやWiseGivingのように、管理費の割合は低ければ低いほどよいという類いの、「効率性」を重視したアプローチに比べると、この考え方はましだと思います。少なくとも、GiveWellは、管理費の割合を機械的に測定することには無関心で、むしろ成果を出すために必要であれば管理費の割合は高くても良い、というスタンスです。
他方で、私は、非営利セクターやソーシャル・セクターに「成果」を持ち込みすぎることに、少し違和感を感じます。「利他主義」の基本にある人間の感情的な部分が捨象されているような気がするからです。寄附やボランティアをする人は、自分のために使えるお金や時間を、あえて他人に使おうとします。そこには、プロジェクトの成果だけに還元されない人と人とのつながりとか、与えることを通じた癒やしとか、参加しているという帰属感とかが生まれているはずです。たぶん、私たちは、このような社会的価値が生まれることを自覚しているから、「利他的行動」を行うのだと思います。言い換えれば、「成果」という結果だけではなく、そのプロセス自体に積極的な価値を見いだしているのです。
そういう意味で、利他主義もまた、人間の基本的な営みの一つです。それを最大限に活用したいという「善意」が、GiveWellにあることは評価した上で、その「善意」が場合によっては、押しつけになってしまったり、さらには制度化されてしまって根本的な感情の部分をないがしろにしてしまわないか、ということを懸念します。
「情報ボックス」のコラムには相応しくない、感想文のようになってしまいました。皆さんは、どのように感じられるでしょう?